野間秀樹先生特別講演in 東京堂ホール開催されました

「ことばを生きる私たち、ことばに学ぶ私たち-韓国語=朝鮮語と日本語と、そして書物と」

16070801

7月8日、CHEKCCORI一周年記念の一つとして、野間秀樹先生による「ことばを生きる私たち、ことばに学ぶ私たち-韓国語=朝鮮語と日本語と、そして書物と」と題し、いつものCHEKCCORIから東京堂ホールに場所を移し、特別講演が行われた。

今年の2月19日を皮切りに毎月1回ずつ、計5回あった野間先生の講演会は毎回盛況で、CHEKCCORIのイベント申込状況を見ると常に『瞬殺』であったことは、皆さんよくご存知であろう。斯く言う私も、5回中2回は行けなかった。毎朝、出勤するとまず確認するのがCHEKCCORIのホームページであるにも関わらず・・・だ。しかし、今回は約80名が参加できる会場。このような素晴らしい講演会を聴くことができたことは、野間先生とCHEKCCORI、金承福社長に感謝である。

 

今回の講演の中でもあったが、初回から聴いていてとても印象的であったのが、〈言語≠国≠民族〉。

16070803

(真剣に聞き入るみなさん)

 

日本で生まれ、日本国籍を持ち、“日本語”と一般的に言われていることば(この“日本語”という名称も近代、明治以降とのこと)を話していた私にとっては「えっ・・・?」だった。先生のお話しを聴くまで何も疑問も抱かずにきてしまった私にとっては、とても貴重な“ことば”だ。日本には日本人以外の人も多く住んでいるし使っている言葉もさまざまである。単に“国民”といっても日本人だけではないので

ことばの意味として矛盾である。

 

そして、

①〈話されたことば〉と〈書かれたことば〉という言語の存在様式
②〈話しことば〉と〈書きことば〉という表現や文体のありよう  *1)

 

 

正直なところ、私や私の周りの生活は「ことばが乱れきっている」状態なのだと思う。メールやSNSの書き込みなどに、〈話しことば〉の文体を用いて書いていることが多い。著書によれば、『〈話されたことば〉で用いられる〈話しことば〉の文体とはまた異なった、新たな文体がもし成立してゆくのなら、そこで初めて、〈書き(、、)ことば(、、、)〉の(、)新た(、、、)な(、)文体(、、、、)と呼ぶべきものとなるのです。』*2)とある。

野間先生のおっしゃる“ことば”は、次々と且つすんなりと頭に入ってくる。「そりゃあ、先生は講義や講演はプロじゃない?」と思う方もいらっしゃるであろう。しかし、それだけではない“野間ワールド”があるように思った。先生は、毎回資料画面を早送りしてしまうほど私たちに話したいことがたくさんあり、数回聴いたくらいでは「まだまだ先は遠い」世界なのだが、言語学の面白みに、まだほんのわずかだが触れられたように思う。

 

野間先生はご存知の通り著書が多いが、今回の講演を聴いてから著書を手にする方も増えたのではないだろうか。その中の1冊に、クオンで発刊された『韓国・朝鮮の知を読む』がある。なかなか厚みもあり、正直なところまだ読めていないのだが、韓国・朝鮮の知について“知りたい”願望が強い私にとっては、是非読みたい1冊である。

 

16070802

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参加者の皆さんの満足そうなお顔が印象的です)

[参考文献]
*1) 野間秀樹;文春新書、日本語とハングル、p146、2014年4月
*2) 野間秀樹;文春新書、日本語とハングル、p147、2014年4月

(文 滝沢織衣)